ボズの日記(Diary of VOZ)

VOZ(声)。ついついアタマの声に騙されてココロの声を聞き逃してしまいがちな毎日ですが、ダレカの声にも耳を傾けながら書いていきたいと思います

”自分”てなんだろう?(1)〜村上春樹「一人称単数」

 前に<自分探し>って流行りましたよね。「自分探しの旅」とか。思い返してみると、僕は”自分”って何だろう?とか一度も本気で考えたこともないし”自分探しの旅”にも出かけたこともないです。

 でも、そういう方向に向かう気持ちはすごくわかる気もします。でもなんかどこか違うような、という気持ちもありました。

 そんな時にたまたま、みうらじゅんさんの「最後の授業」という番組を見て、まさに”目から鱗が落ちました。そこでみうらさんが提唱する<自分なくし>という意見はものすごく納得できたんですよね。<自分が憧れていてもそうなれる可能性のないものはどんどん消してゆくとあんまり好きじゃない変なものだけが残る。でも、それがやがて光って見えてくる>そんなことをおっしゃっていたと思います。

 自分は無性に惹かれるけど、人から変に思われるものにとことんハマって、たとえ飽きても無理やりハマり続けるみたいなこともおっしゃっていましたが、これなんてまさに<自分なくしの旅>だと思います。

 <自分探し>には”自分は特別なんだって思いたいという渇望”を感じてしまうのですが、<自分なくし>は”生まれついた自分をただただまっとうすればいいんだという悟り”のように思えます。

   それから「最後の授業」の中でみうらさんは”みんな自分に対しては真面目すぎて病気なんだ”と語っていて、これもまたすごく納得できます。若い頃は僕もあちこち旅をしましたが、旅先の安宿で出会った”放浪を続けるバッグパッカー”たちはみんな真面目ですごく優しい印象の人たちでした。

 僕はと言えば、頭の中にけっこう大きめの”自分”というのがずっといて相変わらず持て余しています。もういい年なんですけどね。そして、<自分探し>まではしないけど<自分なくし>もできないままここまで生きてきてしまった感があります(苦笑。

 他人のことはかなり<ステレオタイプ>にとらえてちゃっちゃとすませているのに、自分のことは<レイアウトが決まらず散らかったままの部屋>みたいにずっと保留状態です。

 他の人もきっと自分のことなんて<ステレオタイプ>で見ているでしょうから、他の人から見た<自分>をあらためて意識してみた方が自分のことがわかるのかなあ、なんて思ったりもします。

 

 村上春樹さんの短編で「一人称単数」というのがあって、主人公があるバーで他人から全く身の覚えのないことでひどく非難されるという話です。

 普段は誰もが、単純にとらえられない「自分」をぼんやりと認識していると思うんですけど、自分では思ったこともない<自分>を突然見ず知らずの人間から突きつけられたことで、すっかり混乱してしまうんですね。

 頭の中の「自分」とは全く違う「自分」というものがあることに気づかされるわけです。これが「自分」です、なんていう決まったものなんてないよ、ということなんでしょうね。

 

 それから、同名の短編集「一人称単数」に収められている「クリーム」という短編では、主人公の前に突然現れた老人がこういう謎の言葉を残すんです。

「中心がいくつもあってやな、いや、時として無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」 


主人公はそれをこう考察します。
「それはおそらく具体的な図形としての円ではなく、人の意識の中にのみ存在する円なのだろう」  

 僕は、その円は自分の中にある「自分」じゃないかと思いました。自分自身がとらえる「自分」というのは他の人との関わり合いの中で絶えず変化してゆくもの、自分自身の評価も他人からの評価も決して定まることはない、それを例えるなら”中心がいっぱいあって外周のない円”みたいな、とらえようのないもの、ということなんじゃないかと。

 そう考えると、自分なんてどうしようもないほど”つかみどころのないもの”なんだから、あんまり真剣に悩まないで、ふだんはなるべく無視して(笑、他の人から見た<自分>を突きつけられることがあれば、その時にあらためて省みてみる、くらいが精神衛生的にもいいのになあ、なんて思いました。