大きな災害やコロナなどの緊急時になると、音楽やエンタメは不要不急か?という話が出てきますよね。
そうすると僕はいつもモヤモヤした気持ちになっていました。違う!必要不可欠だ!と反論したいとかそういうことじゃなくて、もうちょっと根っこの問題というか。で、最近そのモヤモヤが何だったのかわかりました。
そのきっかけになったのは僕の「まいにちポップス」というブログの読者の馬鹿楽(バート・バカラックの大ファン)さんから『SOSEGON魂』というブログを紹介していただいたことだったんです。
SOSEGON(ソセゴン)とは医療用の鎮痛剤のことだそうで、そのブログの筆者の方は難病のため常に鎮痛剤の服用が必要なほどの痛みを抱えながら数十回もの手術を受け、入退院を繰り返し、そんな日々の中で15年もの間自分の好きな音楽を紹介し続けていたんです。
音楽の知識はびっくりするほど広くて、選曲のセンスがまた素晴らしく(古い音楽だけじゃなく若くてまだ知名度のないアーティストのセレクトもされていて、それもまたいいんです)、おまけに筆致は穏やかで優しく親しみやすい。
でも、筆者の方は昨年の12月に亡くなられていたんです。最後の記事のコメント欄にあったご友人のコメントによると、あまりに衰弱が激しかったためご自身の意思で透析をやめられたとのことでした。
いつも体のどこかに激しい痛みがあり、いつ亡くなってもおかしくない状況を何度も経験しながら、こういう音楽愛にあふれたブログを書き続けたSASEGONさんには言い表せないほどのリスペクトを感じますし、同時に音楽ってすごいんだなあ、とあらためて気づかせてもらいました。そして、SASEGONさんにとって音楽は生きていくために絶対必要なものだったのだと確信しました。
そして、音楽は不要不急かという話についてモヤモヤしていたのことが僕なりにクリアになったんですよね。
それは、
音楽やエンタメが不要不急か、それは作り手や発信者側が言うことじゃなくて、聴く側や受け手”それぞれ”が決めることだ
ということなんです。
付け加えれば
緊急時じゃなくても音楽やエンタメは必要ないって人はいる、でもそうじゃない人もいる。個々の問題なんだ。
という、いたって当たり前のことでした。
<音楽やエンタメ不要不急論>にはファンや受け手としての心情はあまり反映されていないように思うんです。そして、仮に受け手のことを考えたとしても、それを<大きなかたまり>でしかとらえていないような印象があるんです。
もちろん、そういう発言をされた方は、音楽やエンタメを卑下したわけではなく、作り手もしくは発信する側の人間として予想もできないほどの大きな災いを目の前にした”無力感”を正直に謙虚な気持ちで発したのだと思います。もしくはエラそうにおごっちゃいけないという自戒の気持ちもあったのかもしれません。
ただ、一つの表現物は、受け手によってそれぞれいろんな働きかけがあって、大げさに言えば受け手の心の中で新たなかたちで生まれ変わるものなんだろうと僕は思います。
そして、何より受け手も<大衆>という”大きなかたまり”じゃなくて、それぞれが<個>なんですよね。
そう考えると不要不急論は受け手の内面や、嗜好性、価値観の話なので、一般論で語っても何の役に立たないし、そういう議論の中でアーティストやクリエイターが自分の仕事を<不要不急>だととらえて無力感を感じることなんてあっちゃいけないし、逆に自分の思い込みだけで動いて、結果的に音楽を”押しつける”ようなことになるのも違うよなあ、そんな気持ちが僕のモヤモヤの正体だったんです。
あと<不要不急>という変に引っ掛かりのあるワードが勝手に一人歩きしちゃった側面もあるなあと思います。
僕は長いこと自分で音楽レーベルをやっていて、アーティストやクリエイターをずっとサポートをしてきたので<発信者>の立場にいます。
それで発信する側の視点でしか考えなかったからこそ、その当たり前のことになかなか気づかなかったんだなと自分で反省しています。
どんなに素晴らしいアーティストでも、最初は一人の”受け手”だったはずですからね。
一人の受け手の自分に立ち戻って、そこから作り手、発信する側として何ができるか考える、本来これは非常時、緊急時じゃなくてもいつもやってなくちゃいけないことなんですよね。僕も反省するしかありません。。。
能登半島地震のときに星野源さんがご自身のラジオ番組を急遽生に切り替えて「一緒に同じ時間を過ごしましょう」と呼びかけましたが、これは”受け手としての自分”に一度立ち返って、そこから送り手として何ができるかを考えたアクションだったのじゃないかと、リスペクトを込めて推察しました。
考えてみると僕は、どんなにキャリアを重ねても一人の受け手(音楽ファン)としての人間性が伝わってくるようなアーティストが昔からすごく好きなんですよね。