僕が小学生の頃に、「平凡」と「明星」という二代アイドル雑誌があってすごく人気がありました。
そこで紹介されているアイドルのプロフィールの「趣味」欄には<読書><テニス>と並んで<レコード鑑賞(音楽鑑賞)>というのが定番になっていました。もうコピペしてるんじゃないかってくらいに(あっコピペなんてない時代でした、、)。他には男性アイドルの場合は<ギター>とか<スキー>とか、女性アイドルは<料理><お菓子作り>なんかをよく目にしましたね
ほとんどの趣味は今も通用しますが<音楽鑑賞>はほぼ絶滅しましたねw。
goo辞書によると<鑑賞>とは
”芸術作品などを見たり聞いたり読んだりして、それが表現しようとするところをつかみとり、そのよさを味わうこと”
と書いてあります。
音楽とはアーティストや演奏者の”表現”であり、聴き手はそれをつかみとろうとするのが音楽鑑賞だったわけですね。
その中で優れた”表現のつかみ手”であり、それを言葉でうまく言える人は音楽評論家になったのでしょうね。その他のファンも、作品やその表現にはどういう意味があるかを、けっこう熱苦しく語っていた時代があったのは間違いないです。
ちょっと言い方がよくないですけど、アーティストや制作者がかなり高い位置にいて、リスナーがその下でありがたく聴かせていただくという、そんな<一方通行な>関係が当たり前なものとして受け入れられていたんだとも言えます。
僕なんかまさに”音楽鑑賞”世代なので、その呪縛にずっとしばられて生きてきました。
でも、世の中的にはかなり前から、聴き手側もずっと能動的な関わり方をするように変わってきたんじゃないでしょうか。音楽は鑑賞するものではなく<体験するもの>になってきていますね。ありがたく拝聴するのではなく、自分の人生の何かプラスになるものとして取り入れるようなスタンスに。
でも、それは自然な流れなんでしょう。
前にこのブログでもご紹介しました音楽学者の小泉文夫さんは、世界中の民族音楽を聴き、音楽の歴史をさかのぼれるだけさかのぼって研究された方なので、とても広い視点で音楽を見られていました。
彼の本を読むと、音楽鑑賞が大ブームだった1970年代の段階で、観客が行儀よく聴くだけのクラシックのコンサートの不自然さに違和感を述べていましたし、レコードやカセットがこれからどんどん売れようとしているタイミングで、そういうものはしばらくは続くだろうけど、結局は自分で音楽をやる方向に帰っていくだろうとおっしゃっていたんですね。
そして、50年近く前に彼が語っていた<音楽本来のあり方>は、2024年の今、これからの時代の音楽のあり方を予言しているような気がするんです。
「音楽は一人で作るんじゃなくてコミュニティがつくるものであり、音楽の本来のあり方というのは、人間同志が仲良くなるためにあるんであって、決して人間をコントロールするためにあるんじゃないんだ」
(「音楽の根源にあるもの」)
アーティストの”表現”を聴き手が”鑑賞”する、というのはたまたまそういう時代の音楽のあり方だっただけで、音楽の本質はそういうものではない、そんなことに今さらながら気づきました。で、そういう時代はもう終わっているのかもしれません。
CDから配信、そしてサブスクへと音楽を取り巻く環境はどんどん”進歩”しているように思いますが、それは同時に<音楽本来のもの>へと回帰する動きだったのか?そんな気もしてきました。
<コミュニティが作る、人間同志が仲良くなるための音楽>ってどんなものだろう?そんなことを考えたくなりました。
少なくとも今までのようにアーティストがファンに対してすごく上の立場にいるんじゃなくて、もっとフラットな関係で、<ファンベース>なコミュニティを作っていくことなのかもしれません。そして、アーティストやクリエイターとファンが双方向でハッピーになれることを目標とした仕組み作りになるのがベストだなと考えてみたりしています。