ボズの日記(Diary of VOZ)

VOZ(声)。ついついアタマの声に騙されてココロの声を聞き逃してしまいがちな毎日ですが、ダレカの声にも耳を傾けながら書いていきたいと思います

音楽は不要不急か?(2)〜もっと広くて長い目で見たら

 昨日このブログで書いた「音楽は不要不急か」という話は、もちろん、今の世の中での<音楽>ということで、ほぼ<商業音楽>のことだという前提で、ああだこうだ考えてみたわけですけど、もっと広い意味での<音楽>になると全然違う話になるかと思います。僕の脳みそじゃとても太刀打ちできない話ですがw。

 

 小泉 文夫さん(1927-1983年)という高名な民族音楽学者の人がいらして、世界中のあらゆる民族、文化に自ら飛び込んで”音楽”とは何かということを生涯をかけて研究された方で、書かれた本は語り口調も親しみやすくて内容がすごくおもしろいので、昔せっせと読んでいたことがありました。

 

 彼の本で記憶に残っているのは、フィリピンや台湾などにいた<首狩り族>(怖いですね、、さすがに今はほとんど残っていないようですが)は、狩りに行く前に合唱をしたそうで、そのハーモニーの出来が良かったら、全員の気持ちが合っている証拠だから狩りにいこう、出来が悪ければやめよう、と判断したという話です。狩りの相手も首狩り族ですから、まさに生死がかかっているわけです。そんな重大な決定を<ハーモニーの出来>に委ねたんですね。

 それからエスキモーの話なんですけど、内陸部でカリブーやシカを追う部族と、海岸部でクジラを追う部族では、歌やリズム感のレベルが全然違うらしく、クジラを追う部族の方が圧倒的に歌もリズム感も演奏も上手かったそうなんです。

 それはなぜかというと、カリブーは集団じゃなく個人で捕まえることができるけど、クジラは全員で力を合わせなくちゃいけないわけで、だから常日頃からみんなで歌を歌って一致団結しておかなきゃいけなかったんです。食料確保のため、生きていくために音楽が必要だったと言えるのかもしれません。

 

「集団の仕事、狩猟でも漁撈でもいい、とにかく大勢の人間が力を合わせる必要が、歌の規則を生むのだ。別の言葉でいえば、人間は何を食べているか、どうやってその食料を得るかによって、社会と歌のスタイルが決められるともいえる」

 (小泉文夫「音楽の根源にあるもの」)

 

 僕の生きてきた時代は、たまたま資本主義の発展とともに、そのシステムに音楽も適応した(させた?)ために、個人個人の嗜好品としての存在意義ばかりがどんどん大きくなったのかもしれませんね。

 「音楽不要不急論」は長く見てもここ何十年かの状況を基盤にして語られているわけで、もっと広くて長い目で見たら、すなわち民族や時代が変われば、個人じゃなく、ある集団全体にとって<音楽は生存のために必要不可欠なもの>だというケースもあることになります。だいたい”音楽が不要不急か”という議論自体、音楽の神様に叱られそうですけどね。

 

 商業音楽のまさにピークの時代を生きてきたので、僕なんかもっぱら個人の楽しみとして音楽に接してきました。なので、生きるか死ぬかの局面で音楽と接した経験はさすがにないです。

 ただそんな時代のニュースとしてすごく印象的だったのは、2004年の台風23号の時に、川の氾濫に巻き込まれ立ち往生したバスの乗客が、バスの上で救助を待ちながら、眠って凍死しないようにと、みんなで「上を向いて歩こう」を歌ったというエピソードでした。

 歌が命を繋いだということにすごく感動したのをおぼえています。と、同時にその乗客たちよりもう少し下の世代の僕たちはそんな局面でみんなで一緒に歌える歌はあるのかな?とも思いました。みんなで歌えなくてはいけないし、少し前向きになれる歌の方がいいわけです。自分がその場にいたらどうしたか、なかなか想像がつきません、、。

 

 インターネットによってこの十数年、どんどん「個」の時代になってきましたが、同時に”「個」の限界”も見えてきて、新たな「つながり」、集団作りを模索している人たちも増えていますよね。

 もし「集団」のあり方によって音楽も変わるのだったら、新時代の「集団」にとって音楽がどんな存在になるのか、僕は楽しみです。

 

 

 

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