ボズの日記(Diary of VOZ)

VOZ(声)。ついついアタマの声に騙されてココロの声を聞き逃してしまいがちな毎日ですが、ダレカの声にも耳を傾けながら書いていきたいと思います

どうして「物語」を読むんだろう?

 高校生の頃だったか、友だちから「小説なんて読んで何の役に立つの?」と尋ねられたことがありました。
 その友人はノウハウ本とか実用的なものしか読まないタイプでした。

 僕は小さい頃からなぜか物語とか小説が好きで、父親が書斎の”飾り”として買ってあった”日本文学全集”を家族でただ一人コツコツと読んでいました。
 友達の質問に僕は「役には立たないかもしれないけど、ただ好きだから読んでるだけ」とか味気ない返答をしたのだと思うので、その友だちの反応も「ふうん」くらいだった気がします。

 突然そんなことを思い出したので、小説や物語をたくさん読んだことが、僕にどんな影響があったのか、ちょっと考えてみました。

 

 まず思ったのが、本を読みながら別の人生を”疑似体験”したことが、自分のキャラにもけっこう影響を与えたということです。

 誰だって生まれ持った性格を土台にして、そこにいろんな経験をした記憶の影響を受けながら、その人のキャラは形作られていくのだと思いますが、実際に経験したことだけじゃなく、”創作物”の影響っていうのも案外あったんじゃないかという気がします。

 記憶っていうのは<地層>のように時間とともにどんどん積み重なりながら、同時には”地殻変動”みたいな<記憶の処理システム>が絶えず動いていて、その結果古い記憶の層と新しい層がぐちゃぐちゃになったりして、そんな”記憶の地層”の上で僕たちは、きっと毎日ものごとを感じて、考えて、判断しているんじゃないでしょうか。

 物語を読んで”擬似体験”したことも、その記憶の地層に紛れ込んでいるように僕は思うんですよね。

 もちろん、TVや映画にもそういう効果があるとは思いますが、ビジュアルがはっきりしている分、創作物だという感覚も強くて、かえって読書はビジュアルを自分で想像して”こしらえ”なきゃいけないという”ひと手間”かかる分、”自分のことのように感じる”度合いが強いような気がします。 

 僕の場合、ある出来事に直面して何か判断するときに、実際に経験したことだけじゃなく、今まで読んできて深く印象に残った物語から得た価値観もまた影響を与えてるかもなあ、と気づくことが今まで何度もありました。
 
 それから、いろんな物語の世界に入り込むというのは、多様性を知るということもあるんじゃないでしょうか。

 僕は新潟の小さな町で生まれ育ちましたから、そのまま普通に暮らしていたらきっと限られた価値観や選択肢の中で、親やまわりにいる誰かと似たような生き方をしていたように思います。それはそれで人間としては決して悪いことではないですけど。ただ、今は多様性と直面しなければいけない世の中ですから、僕は物語を読んでいたことで、世の中にはいろんな世界があって、いろんな生き方や価値観があるということを早い段階から自然に受け入れることができていたように思います。自分の中のいろんな面、多面性にも気づけました。

 そのかわり、小説を読むデメリットというか、今思い出してみてう〜ん、って思うのは、文学、特に純文学と呼ばれるものはだいたい<破滅>を描いているので、<破滅の美学>みたいな価値観にけっこう侵食されたってことですね。

 (一番古い例で言うと小学校の高学年くらいで読んだ、フランスの作家ドーデーの「黄金の脳みそを持った男の話」はけっこう記憶の深い場所にあって影響を受けてずっと頭の中に残っています。生まれつき黄金でできた脳を持つ男が、他の人の欲望(親や恋人まで)に飲み込まれながらその黄金を虚しく使い果たしてしまうという話です)

 僕は本来は能天気な方だと思うのですが、十代から二十代のいちばんエネルギーのある時代に、そういう<破滅の価値観>の影響を受けると、妄想癖がエスカレートして、健康な無邪気さを阻害していたのは間違いないでしょう。恋愛していてもバッド・エンドが絶えず頭にちらついていましたし、会社員になっても<バリバリ働いて出世してやる!>みたいなモードに当然ならなくて、すぐに気疲れするので一人の時間を確保することを優先していました。なんか今どきの若者みたいですけど。

 読書によって自分の内面の悲観的な傾向を必要以上に育ててしまったような気もして、それが自分にとってどうだったんだろう?とは思わなくもないです(苦笑。

 世の中の小説好きな人たちは、物語にハマることで実際の人生にどんな影響があったんでしょう?いろんな意見がありそうですが。