「ショーシャンクの空に」。今では誰もが認める名作の座についていますよね。
逆境の中を生きている人たちに希望を与える素晴らしい作品だと思います。
仕事でもなんでも、やってもやっても結果がついてこない時期って必ずありますよね。僕はそんな時は、”ショーシャンク期間”なんだと自分に言い聞かせたりします(笑。
この映画の監督と脚本を手がけたフランク・ダラボンはこんな風に語っています。
「私を例とするなら、脚本家として食っていけるようになるまで、飢えて、もがいて、技術を磨くことに9年の歳月を費やしました。それは収穫のない年月でした。しかし、それからの9年間、私は仕事をやめませんでした。私は自分のことをとてもラッキーだと思っていますが、また、自分のチャンスがどれほど真っ暗に見えても、自分自身を信じ続け、決意と努力で必死に頑張れば、自分で運を切り開くことができるとも信じています(この哲学は『ショーシャンクの空に』の根底に潜んでいて、私がキングの書いたストーリーに惚れ込んだ主な理由のひとつでもあるのです)」
Memo from the Trenches by Frank Darabont
9年の報われない自分自身の下積み生活に、映画の主人公アンディがスプーンで牢屋の壁を夜な夜なコツコツ掘る姿、を重ね合わせたのかもしれませんね。
この映画はスティーヴン・キング原作の「刑務所のリタ・ヘイワース」を元にしています。無実の罪で服役するアンディは刑務所の図書館の本を充実させ、他の受刑者に高校卒業の資格が与えられるよう勉強を教えるのですが、フランク・タラボンはそこに音楽を新たにプラスしているんですね。
図書館用に寄贈されたモーツァルトの「フィガロの結婚」のレコードを、刑務所内のスピーカーで流し、屋外にいた受刑者たちは、頭上にあるスピーカーから突然流れてきたオペラに驚き、見上げたままただ呆然と立ち尽くす、そんなシーンがこの映画のハイライトの一つになっています。
そして、この映画の語り部である、モーガン・フリーマン演ずる”レッド”のこんなナレーションが入ります。
「私には今日まで見当もつかない、あの二人のイタリア人女性が何を歌っていたのかを。本当を言えば、知りたくない。言わないほうがいいこともあるのだ。美しいものについて歌っていて、言葉では言い表せないような、そのせいで心が痛むのだと私は思いたい。
言っておくが、その声は灰色の場所にいる誰もが精一杯夢見るよりも高く遠くまで舞い上がった。まるで何か美しい鳥が、私たちの殺風景な小さな檻の中に羽ばたいて、壁を解き払ったかのようで、ほんの束の間、ショーシャンクのすべての男が自由を感じたのだ」
僕は前から日本の担当者はなぜ「ショーシャンクの空に」って邦題をつけたんだろう?と気になってたんです。「ショーシャンクの空」でもいいじゃないか。なぜ「空に」なのだ?「空に」の後に何が続くんだって。
<ショーシャンクの空に>に続く言葉をこちらで勝手にこしらえるなら<音楽が高く舞い上がって行った>という感じでしょうか。
そのシーンで流れた音楽は「フィガロの結婚」の中の「手紙の二重奏」で、伯爵夫人が自分への愛が冷めてしまった夫(伯爵)を懲らしめるために罠をかけようとして、策略の手紙を女中のスザンヌに口述筆記させるという内容なんです。受刑者たちは何を歌っているのか知らなくて良かったわけですね(笑。
ネットを見ると、学のない受刑者にオペラを聴かせるのというは皮肉を意味している、と言った意見もあるようですが、僕はこれには真っ向から反対の立場をとりたいです。
音楽の作り手の意図が全然伝わらなくても、作者が思いもしなかった解釈をされることがあっても、聴き手の心に何か良い反応を起こすことができるのが音楽の醍醐味の一つだと思うからです。
この件が原因で懲罰房に入れられたアンディは、仲間たちにどうだったか聞かれると
「ずっとモーツアルトと一緒だったから大丈夫」と答えます。
「頭の中でずっと鳴らしていたから」と。
真っ暗で狭い独房の中で、頭の中の音楽が彼を支えたわけです。
そして、こう言います。
「それが音楽の美しさだ。誰もそれを奪うことなんてできない」
(That’s The Beauty of Music. They Can’t Get That From You)
音楽は人間が人間らしくいるために必要なものなんだ
ということを言っているのだと僕は思います。
これはスティーヴン・キングの原作にはない場面です。
音楽を扱った映画は星の数ほどありますが、とりわけ僕の好きなシーンなんです。