言い切ってしまいましょう。
2004年はバラードの年です。
と言っても、音楽シーン全体ではなくて、<僕界隈(かいわい)>で終わってしまう可能性もなくはないのですが、、、
ちょっと前に星野源の「おげんさんのサブスク堂」(NHK)を観てたら、彼が2023年に一番よく聴いたのアーティストがデヴィッド・フォスターで、一番聴いた曲がフォスター作のチャカ・カーンの「Through The Fire」だと言っていたのでちょっとビックリして、でもなんだかうれしくなりました。
僕の若い頃だったら、彼のようなアーティスティックな人は好きなアーティストにデヴィッド・フォスターの名前なんて絶対あげなかったですからね。
コンサバで商業主義で甘っちょろい音楽の代表みたいな存在で、少なくともロック・ファンとか音楽通からはリスペクトされることなんてなかった人だと思います。
AOR好きだった僕はもちろん聴きました。でも、好きなアーティストはもうちょっとマイナーな人の名前をあげて通ぶっていました(苦笑。彼の曲では、特に「Through The Fire」、アース、ウィンド&ファイアーの「After The Love Has Gone」、あと彼のソロ・アルバムに入っていた「Love At The Second Sight」って曲も好きでした。
「Love At The Second Sight」
僕より下の世代は変なバイアスをかけずに、心の求めるままに音楽を楽しめているんだなあ、いい時代になったなあ、としみじみうれしくなりました。
そんなことを思っていたら、今年僕が関わる作品はバラードが多そうな感じになってきて、これは、何かあるかなと勝手に深読みを始めたわけです。
先陣を切って、 僕がマネージメントと共同プロデュースをやっている葛谷葉子が、この間発売になった薬師丸ひろ子さんのニューアルバム「Tree」に収録されている「愛することにもし疲れても」という曲を作曲しています。
いわゆる”王道”のバラードです(いしわたり淳治さんの歌詞が、ただの”別れの歌”では終わらせていないですが)。
考えてみると、こういう王道の上質なバラードはふだん暮らしていて耳にする機会がかなり減ってきています。
けっこう長い間、流行するバラードは、歌詞がリアルに聴こえる”泣き歌”ばかりでしたし。
「Tree」というアルバム全体に言えることですけど、歌唱、詞曲、アレンジ、演奏、みんな質が高くて、聴いているうちに心が癒されるというか、頭の中のノイズがさあっと引いていく感じがしました。
「おげんさんのサブスク堂」に話を戻すと星野源が「Through The Fire」を朝早く散歩しながら聴く、と言っていたのがすごく興味深かったです。
昨日の日記で<こころの声>を聴くためには、心が澄んだ状態、が必要じゃないかと書きましたが、まさに、早朝のまだ”心の澄んだ状態”でデヴィッド・フォスターを聴いていたわけです。
こういうAOR系バラードは僕の若い頃だったら、夕暮れから夜のデート音楽の代表でした。AOR聴くやつなんてナンパだ、と決めつけられました(それを否定はしませんけど(苦笑))。 あと、当時は音楽は商業的かそうじゃないか、の二択で音楽が判断される傾向がありました(もちろん商業的が”悪”だったわけですが)。
でも、「Through The Fire」を早朝の心の澄んだ状態で聴く、というのは、余計な情報に左右されないで、<音楽のクオリティ>をひたすら純粋に楽しんでいるということじゃないのかなあと思ったんですよね。
2024年は年明けから大きな地震があり、事故がありました。SNSを賑わす話題、ニュースはみんな、やりきれない気持ちにさせられるものばかりです。普通に暮らしているだけでも、気持ちがやられてしまいそうです。
だから今、”無意識に”求められているのは<やたらと刺さる言葉を投げつけてくる共感できる泣き歌>じゃなくて、<知らぬまにささくれだっていた気持ちを癒してくれたり><いろんな雑念で濁った気持ちを薄めてくれるような>音楽なんじゃないか、と僕は思ったわけです。
美しいメロディ、素晴らしい演奏、素晴らしい歌唱でできた音楽にしかできない、人の心への働きかけ、というのは間違いなくあるように僕は思うんですよね。
(ひょっとしたら、それは、歌モノに限らず、坂本龍一さんの「Energy Flow」のようなインストもあり、な気がします)
もちろん、バラードが音楽シーンの主流になることはもうないと思います。でも、心を疲弊させる今の時代の<揺り戻し>として、そういう音楽を求める声がじわじわ広がっていくことはあるんじゃないかなと思って、今年の僕の一つのテーマにしていこうかと思っているところです。