ボズの日記(Diary of VOZ)

VOZ(声)。ついついアタマの声に騙されてココロの声を聞き逃してしまいがちな毎日ですが、ダレカの声にも耳を傾けながら書いていきたいと思います

不安のしくみ、ってどうなってるの?〜あたまの声、こころの声

 テレビで、ある芸人さんが<睡眠時無呼吸症候群>だと診断されていたんですけど、ぜったい自分もそうだよな〜、と思いながら見てました。

 僕の場合、慢性の副鼻腔炎に加齢がドッと重なっているので、寝ながら普通に呼吸ができてないんでしょうね、明け方になるとばっと目が覚めて、息苦しくて心臓がバクバクしていることがしょっちゅうあります。

 そして、それを追かっけるみたいに、”お金”とか、”仕事”とか、しまいには”毎晩こんなに心臓に負担かけてたら、いつか近いうちにぽっくりいっちゃうんじゃないか?なんていう”健康”の<不安>まで現れてきて、それでますます心臓がバクバクしてきて、バクバクするから不安になって、また不安になるからバクバクするっていうループがグルングルン、としばらく回り続けるんですよね。

 それで、ふと気づいたんです。

 <不安だから心臓がバクバクする>んじゃなくて

 <心臓のバクバクが不安を引き寄せてる>ということに。

 

 僕は、不安っていうのはまず<こころ>に浮かんできて、その次に<あたま>に悪いイメージが浮かんで、結果的に<からだ>にその症状が出る、そういう順番なんだと思い込んでいたんですけど、そうでもないのかなあって思えてきました。

 どうやら、不安が起こる順番の”定番”は

<こころ>→<あたま>→<からだ>の順じゃないかも、、、

かえって、こんな感じの方が多いんじゃないかと考えました。

 <あたま>

   ↑↓  →→→ <こころ>

 <からだ>

 病気だったり、体のコンディションが悪い時の<不安の暴れっぷり>は誰もがよく経験していると思います。

 ただ<からだ>が悲鳴をあげるようなことがあった時、どうするかジャッジするのは<あたま>のわけで、今は仕事の大事なタイミングだからもうちょい頑張れ、とか無理させたりしますね。

 上下関係で言うと<あたま>のほうが<からだ>より上座にいるんじゃないでしょうか。もしくは上司と部下みたいな関係。

 

 そう考えると、日常的には<あたま>が不安の出発点になっていることが多いんでしょうね。

 SNSやテレビで見たことや、誰かに言われたことなんかが引き金になって、知らないうちによくないイメージがわき上がってきて、本当は心配する必要のない<不安>にとりつかれてしまうなんてことが、僕にもよくあります。

 

 本当はなんてことのない物事を勝手に悪い方に解釈して妄想がどんどんデカくなる<思いグセ>なんていうのは<あたま>の暴走以外なんでもないですしね。

 そのときにまた体調が悪かったりすると、その暴走はどんどんエスカレートしますよね。<あたま>と<からだ>のコンビネーションの良さは憎らしいほどいいんです。

 まあ、<あたま>、脳も<からだ>の一部なんですから当然なんでしょうけど。

 

 ともかく、どうやら

 <あたま>と<からだ>が連携して<こころ>をいたぶっている状態を不安と呼ぶんじゃないか、僕にはそんな風に思えてきたんです。

 なので、<不安>をちょっとでもなんとかしたいなら<からだ>と<あたま>をコントロールするしかないのかもな、と考えました。

 <からだ>はなるべく健やかにするかとにかく動かしておいて、<あたま>には身近なタスクをどんどん与えてとにかく余計なことを考えさせないでおく、それができたらいいかもですね。かなり難しいかもですけど。。

 

 この間「覚悟の磨き方 超訳吉田松陰という本をめくっていたら、こういう文にふと目が止まりました。

 

「頭のために、心をすり減らすことほど愚かなことはありません。

 頭は心を満たすために使うものです。」

 

 まさに!です。でも、心を満たすために頭を使うためには、<こころの声>を聞く必要があるでしょう、どうしたら満たされるんですか?教えてって。でも、それもまた難しいですよね。

 <あたま>ってやたらと<こころ>の邪魔してきますしw。だいたい<あたまの声>と<こころの声>となかなか区別つかないですよね。おんなじ人の声のように聞こえます。

 

 僕もはっきりわからないのですが、<こころの声>を聞くには、雑念や余計な情報が入らない状態にするしかないのかな、と思います(ああ、だからみんなヨガとか瞑想とかするんですね。あと、自己啓発系の本にひんぱんに出てくる<今に集中する>というのも、そういうことなんでしょう)。

 例えば、”純粋な感動“とか”混じりっ気のない興味や意欲”みたいな”澄んだ”状態の気持ち”が<こころの声>に近いのかも、という気がします。

 ドーパミン、ドバドバ(?)みたいな麻薬的なトゥーマッチな刺激や興奮じゃなくて、子供っぽいワクワク感とか、日常生活でちょっとうれしくなったり、心からありがたく思ったりする気持ちとか。

 そういう感覚をしっかり覚えておいて、その感覚をこの短い人生でなるべくたくさん味わうにはどうしたらいいのかを<あたま>に考えさせて、そのために<からだ>を動かして何らかの行動をする、そんなふうに連動していけたらいいのかもしれないですよね。

 

 今の時代、ぼうっとしたまま、自分の外側の”何か”に任せっぱなしで生きていたら、知らないうちに<こころ>がすごいダメージを受けてしまう、それだけははっきりわかります。そのためにも何とかして<こころの声>を聞き出さなきゃ、なんて最近は思っています。